楽しむという哲学
『ほぼ日刊イトイ新聞』などで糸井重里さんの文章を読んでいて、この人は哲学者かもしれないと思う時が何度となくあって、谷川俊太郎さんとの対談では詩人の部分があると谷川さんに指摘されていましたが、言葉を通じて物事の本質や真理を突いた表現をするなと思っていました。
先日新聞で状況を楽しむことが下手な現代の人間という言い方があって、じゃあ「楽しむ」ってなんだろうと考えています。
お金をかけてレジャーや旅行をすることは「消費」であって、そこで楽しむかどうかは別の問題です。人によっては一日寝ていることを楽しみとしているかもしれないし、じゃあ誰にとっても楽しい場所とか、テレビ番組とか幻想なのかと思うこともできるのです。
楽しむというには人間の持つ感情や感受性が必要で、それは家族の中の愛情や友情、あと夢が必要な気がします。今すべての人が当たり前にあると思っていたものがそうじゃないと突きつけられ、新たに絆とか日常の大切さが見直されているわけです。悲劇に見舞われた人が何かを楽しむという感情を持つまで回復するのに時間がかかることもようやく認識されるようになった気がします。
つたないながら、こういうブログや小説の作品で人に読んでもらう文章を書いている身としては、楽しむという体験を共有する機会が増えることと、楽しむという感情のアンテナを育むやり方がなにかないかと考えてしまいます。
ネットコミュニケーションだけでなく、リアルの場で何かを楽しむこと、みんなが楽しいことって何だろうかと考えることは、この国のあり方や将来、または人に夢を与える人たちの姿を考えることに繋がるし、ひいては、地球の未来を楽しく夢見る子どもを育てたいという個人的な思いにも至るように思います。
自分の楽しいと思うことを人にうまく伝える。それができるだけで、だいぶみんなと仲良くなれる気がするなあ。大人になった今も、それは模索しています。
- 2012.04.24 Tuesday
- エトセトラ
- 10:36
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- by KASE HISAWO