先週の日曜日、映画ラストレターを観た。
原作の小説は、昨年末に購入し、半分ほど読んでいた。そして、映画鑑賞後、一気に原作を最後まで読んだ。
映画を見ている間は、原作と異なる設定に気付き、その意図を考えた。
そして、両者を共に受け止めて、作中の「小説」に対して、自分が特に興味を持っていることを考えてみた。
映画での主人公は、少なくともクレジットでは松たか子であるが、原作では福山雅治演じる小説家が主人公である。
松たか子は「手紙」の書き手で、福山雅治は「小説」の書き手である。
そして、私自身は一応小説書きなので、映画でも福山雅治に一番共鳴するところがあった。
手紙を書くことと、小説を書くことが、作中で接近していて、どちらも「相手」に届くよう書かれている。
結論から言うと、『ラストレター』は手紙の届き方を描いたもので、原作ではさらにそれを小説で届けようとしているところに私は面白みを感じた。
ここまでネタバレにならないように書いてきたつもりだが、映画ではある人の不在が中心に据えられている。
そして、原作では、さらにあるものが不在で描かれている。
それは、私たち映画鑑賞者や読者が一番見たいものである。ただ、今にして思うと、その不在から始まる物語として作品が成立しているので、その実物は見ることがないかもしれない。
手紙と小説の違いについて書きたい。手紙はプライベート、一対一が基本で、小説は読者に対して書かれるものである。
私自身は手紙と小説の用途と書き方は分けているが、小説家として、手紙形式で書く小説もあるのは認める。
メッセージと創作、これらは混ざりやすく、そして時間の流れによってあいまいになるものもある。
歴史上の人物の手紙は、今では考えられないことも書かれていて、そこからイメージは想像力に頼っている。
結局、手紙も小説も、受け取り手の想像力で意図をくみ取るのである。
だが、岩井俊二監督は、映画によって、この物語を完成させた。
それはつまり、この物語は松たか子と福山雅治をはじめとするキャストによって演じられた「岩井俊二監督」の物語だからである。
ごく基本的なことだが、ここまで私が圧倒され、強く惹かれたのも、映画を観たからである。
音楽も、照明も、美術も、さまざまなツールを総合的に用いる映画の力によって、「書く」ことを印象付けた作品だからだ。そしてそれは成功していると思う。
私自身は今後小説で何ができるか、書き残すこと、書き続けることを見つめなおすことになった。
そしてこの作品が好きになった。まだ観ていない人、特に物書きの人には観てほしい。
結局、人は誰かに何かを届けたいのかもしれない。だから、私も届くように書いていきたい。